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会社案内・代表挨拶

株式会社後藤工務店(ハッピーホーム)
代表取締役社長 後藤健太郎


自己紹介
岐阜県海津市南濃町生まれ、海津市海津町在住
1971年1月22日生まれ
妻と子供二人と両親の6人暮らし
子供は男の双子で20歳、大学生
血液型:O型
干支:猪年
星座:みずがめ座
出身校:石津小学校、南濃中学校、大垣南高校
    金沢工業大学・建築学科
資格:一級建築士、宅地建物取引士、
   岐阜県木造住宅耐震相談士、
   気密測定技能者試験合格、
趣味
・バイク・アコースティックギター
・釣りは30代で辞める
・ゴルフも30代で辞める


私と会社の紹介をさせていただきます。


ホームページをご覧いただきありがとうございます。 
ハッピーホーム 株式会社後藤工務店の代表 後藤と申します。

私と会社の紹介を少しさせていただきます。

弊社は岐阜県海津市に根差す会社で、2025年で創業121年になります。

私が後藤工務店の4代目となります。

初代は後藤善吉と申します。後藤の祖祖父となります。
社寺仏閣建築を主に手掛けていたとの事です。

当時は写真が無く、これは鉛筆で描かれたものだそうです。
当時の建築資料もわずかですが残っています。

二代目の後藤清一と申します。後藤の祖父となります。
社寺仏閣建築から木造住宅の建築も手がけだし、自宅兼作業場のあった海津町を中心に広く建築をしてみえたそうです。

とても腕が良く几帳面でお客様からの信頼が厚かった、と何人かの方から聞きました。

清一棟梁の仕事を見て「明日から下で働かせてください!」と弟子入りを申し込む大工さんもみえたとの事で、その大工さんは私が40代になるまで、大工職人というものを背中で教えて下さいました。



三代目の後藤清春と申します。後藤の父となります。
もう引退しておりますが、高度経済成長期に乗って、たくさんの大工さんを雇い会社を株式会社にしました。

「中学卒業後に家族を養うために、行きたかった高校も行かしてもらえず布団を背負って泣く泣く大阪の工務店さんに丁稚奉公に出て、そこで一人前の大工になって帰ってきた。」と幼少期から母から聞かされていました。

大工仕事の質とスピード、プロとしてのこだわりが強く、大工作業に工作機械を積極的に用いることにも熱心で、引退するまで建築のスピードアップに余念がありませんでした。

また、若い頃に一級大工技能士や二級建築士を取得。40歳で一級建築士を取得しました。後藤が8歳のころでしたが、仕事が終わって夜な夜な遅くまで勉強していたのを、子供心に覚えていたので、それがDNAとして刻まれている気がします。よく遊びましたが、良く働いた父でした。

三代目(後藤の父)の若い頃の写真です↓

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商工会で旅行に行った時の写真との事。

大阪で修業時代の写真との事。何やら手に持っていますが、写真の為にポーズしただけと思われます(汗)

海津町福江の自宅にて。貧しかったけれど昔から楽器のある家だったとか。血は争えませんね(笑)



三代目が広い土地を求めて結婚を機に南濃町吉田に会社を移し、自宅(右端に軒先だけ少し映っている)も併設したころの画像です。
工務店社長の長男として生まれ、3歳年上の姉と共に、自宅の前の工場で働く社員大工さんや出入りする業者さんとふれ合いながら育ちました。
西の養老山脈が見えています。

会社と言っても掘っ建て小屋の様なものでした。
自宅の屋根もトタン張りでまだ冷蔵庫もなく、夏には朝炊いたご飯が夕方には腐ってしまう、という苦労があったそうです。


祖父は毎日バイクで海津町福江の実家から、晩年にはスクーターに乗り換えて南濃町吉田の会社に通っていました。
雨の日も雪の日も毎朝7時半には着いていたそうです。
仕事に厳しい人で、母は家事に仕事の手伝いに休む暇がなかったそうです(涙)

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自宅前で祖父に抱かれる私。私には単なるやさしいお爺さんでした。

作業場を鉄骨建てで建てた写真です。私が記憶があるのはこのころからです。

このころには社員大工さんは5人ほど在籍してみえて、後に皆さんに大工仕事を教わりました。本物の大工さんの仕事のすごさは自分でしてみて初めて分かりました。

このころは社員大工さんが出すカンナくずの掃除や焼却は母の仕事でした。

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仕事の合間をぬって私たちの世話をする母。地面はまだ砂利敷きでした。

自宅の西の空き地に積まれたヒノキなどの木っ端で遊んでいました。毎日でる木っ端の焼却も母の仕事でした。

姉は良く手伝う、気の利く子だったそうで、無茶を言う私はたまに姉にひっぱたかれていました(笑)

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西の出来山に花見に。あるあるの写真ですね。

父は車が趣味でした。昔貧しかったので成り上がりですね。

母は趣味もなく倹約家で、昔から父の苦労話を私たちに語りながら仕事面でも父を支え続けました。

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小学生のころ、西の空き地に二階建ての自宅兼車庫を増築。
母も当然手伝っていました。

そのころ私はスポーツ少年団で野球に一生懸命でしたが、夏休みは釣りでさぼった事も…

母は基本エプロン姿。

父である三代目社長。庭などもだんだん整備していき、アスファルトも張りましたね。

高校卒業後は親元を離れ金沢に。金沢工業大学の建築学科を卒業し、大きな建設会社で現場監督として3年務めた後、後藤工務店に入社しました。

入社してすぐ、たたき上げの大工で父親である社長から「大工仕事を知らないと大工さんと話ができない。結果会社を切り盛りしていくことができない。だからまずは大工仕事を覚えるべき。」
という方針で、20代は工場や現場で大工仕事の見習いをしながら、大工さんや業者さんとの打ち合わせや現場管理をしながら総合的に木造建築を学ぶことができました。


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後藤工務店に入社後、間もなく会社を海津町外浜に移したわけですが、その地鎮祭の写真です。父(社長)はこの時57歳。

私は25歳でまだ結婚前。このころは大工修行をさせてもらいながら、色々学んでいるころでいつも作業服を着て汗をかきながら働いていました。

まずは作業場の北棟を新築。

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間髪入れず、南濃町吉田の西作業場を海津町に移設するために解体。
右側が私が小学生の頃、増築された部分です。

南側の作業場が南濃町から持ってきたものです。

南西側から会社を見る。


30代、大工仕事の写真。


経営理念

未来を見つめ 共に成長し
家づくりを通じてお客様に貢献する


「『そこに住むご家族がいつまでも安心・快適で暮らせる家』とはお客様の想いをくみ取る事はもちろん、私共の経験も伝え活かすことで造られ、末永く親身なサポートをさせていただく事によって成し得るもの。」という想いで日々家づくりをしております。

家づくりを考えるあなたに、 
いつまでも健康快適に満足を感じながら暮らしていただける家をご提供したい。

家で困っているあなたに、我々の知見と技術を活かして喜んでもらいたい。

そんなあなたの想いに応えることが我々の使命で、暮らし始めてからも満足のお声をいただけることが我々の目標です。



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