自身25歳で後藤工務店に入社。
会社がまだ南濃町にあったころです。
じきに「ここは道が狭く、周りの方にも迷惑をかける。海津町に広い土地が買ってあるから海津町に会社を戻そう。工場も広くすればもっと効率よく仕事が出来るから。」
と父親である社長の一声で会社を移しました。
20代のころは昼間は大工修行として立派な本屋普請の仕事の一部を刻み仕事からさせてもらい、夜に大工仕事の記録メモ、昼間うまく出来なかった大工仕事の修正や練習、違う物件の図面作業、リフォームの見積り、それに伴う社員大工さんの仕事の段取りなど、というような生活でした。
当時の後藤工務店が手掛ける家は、昔ながらの日本瓦がのった本屋普請がほとんどで、リフォームも築40年50年などの立派な家が多かった時代でした。
そして総合的に何となく覚えてきた30歳になった時に、社長の意向で初めてプランニング設計から、工事は大工棟梁として任されました。
当時は、「それはまだ早い。」と思っていましたが、それをさせる社長の想いも分かっていたので観念して(笑)引き受けました。
その自身棟梁としての1棟目は、大工棟梁としての仕事を社長や先輩大工さんに教わりながら、仕事が遅い分を夜なべでカバーして無事お引渡しをさせていただきました。
まだ経験の浅い若造が無事に任務を果たせたのは、当時の社長や先輩大工さんのお陰で、それを温かく見守っていただいたお施主様にも感謝しております。
そして住宅建築漬けの充実した生活をしていた訳ですが、
32歳になったころ再び社長から
「大工仕事は昔ながらの本屋普請を一から一人で全部出来ないと認められんで、棟梁として今度は墨付けから刻みもやってみ。 他の大工さんへの仕事の分担、指示、協力業者さんへの指示・管理も。」
との命令。
今振り返ってもかなりの無茶ぶりでしたが、自分の大工技術と自分自身に向き合いながら、いろんな汗をかきながら、その家づくりを成し遂げられたことで昔ながらの家づくりの作法・理屈・技術の部分、家一軒全体から細部に至るまでの繋がりが理解できるようになりました。
私が手持ちのデジカメで「記録用に」と広角レンズでササっと撮影したものなので写真が傾いていますし、歪みが大きいです。悪しからずご了承ください。
切妻屋根(玄関のみ入母屋屋根)
船枻造り(軒の出は3尺5寸)
屋根:和形粘土瓦(いぶし瓦)釘打ち馴染み葺き
外壁:ガルバリウム鋼板(一部タイル、一部黒壁)
和室:長押造り