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弊社の歩みと後藤の生い立ち

ハッピーホーム 株式会社後藤工務店の代表 後藤と申します。
2025年で創業121年になります後藤工務店の歴史と私の生い立ちを少し紹介させていただきます。

初代は後藤善吉と申します。後藤の祖祖父となります。
社寺仏閣建築を主に手掛けていたとの事です。

当時は写真が無く、これは鉛筆で描かれたものだそうです。
当時の建築資料もわずかですが残っています。


二代目の後藤清一と申します。後藤の祖父となります。
社寺仏閣建築から木造住宅の建築も手がけだし、自宅兼作業場のあった海津町を中心に広く建築をしてみえたそうです。

とても腕が良く几帳面でお客様からの信頼が厚かった、と何人かの方から聞きました。

清一棟梁の仕事を見て「明日から下で働かせてください!」と弟子入りを申し込む大工さんもみえたとの事で、その大工さんは私が40代になるまで、大工職人というものを背中で教えて下さいました。



三代目の後藤清春と申します。後藤の父となります。
もう引退しておりますが、高度経済成長期に乗って、たくさんの大工さんを雇い会社を株式会社にしました。

「中学卒業後に家族を養うために、行きたかった高校も行かしてもらえず布団を背負って泣く泣く大阪の工務店さんに丁稚奉公に出て、そこで一人前の大工になって帰ってきた。」と幼少期から母から聞かされていました。

大工仕事の質とスピード、プロとしてのこだわりが強く、大工作業に工作機械を積極的に用いることにも熱心で、引退するまで建築のスピードアップに余念がありませんでした。

また、若い頃に一級大工技能士や二級建築士を取得。40歳で一級建築士を取得しました。後藤が8歳のころでしたが、仕事が終わって夜な夜な遅くまで勉強していたのを、子供心に覚えていたので、それがDNAとして刻まれている気がします。よく遊びましたが、良く働いた父でした。

三代目(後藤の父)の若い頃の写真です↓

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商工会で旅行に行った時の写真との事。

大阪で修業時代の写真との事。何やら手に持っていますが、写真の為にポーズしただけと思われます(汗)

海津町福江の自宅にて。貧しかったけれど昔から楽器のある家だったとか。血は争えませんね(笑)



三代目が広い土地を求めて結婚を機に南濃町吉田に会社を移し、自宅(右端に軒先だけ少し映っている)も併設したころの画像です。
私後藤は姉と共にここで生まれました。西の養老山脈が見えています。

会社と言っても掘っ建て小屋の様なものでした。
自宅の屋根もトタン張りでまだ冷蔵庫もなく、夏には朝炊いたご飯が夕方には腐ってしまう、という苦労があったそうです。


祖父は毎日バイクで海津町福江の実家から、晩年にはスクーターに乗り換えて南濃町吉田の会社に通っていました。
雨の日も雪の日も毎朝7時半には着いていたそうです。
仕事に厳しい人で、母は家事に仕事の手伝いに休む暇がなかったそうです(涙)

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自宅前で祖父に抱かれる私。私には単なるやさしいお爺さんでした。

作業場を鉄骨建てで建てた写真です。私が記憶があるのはこのころからです。

このころには社員大工さんは5人ほど在籍してみえて、後に皆さんに大工仕事を教わりました。本物の大工さんの仕事のすごさは自分でしてみて初めて分かりました。

このころは社員大工さんが出すカンナくずの掃除や焼却は母の仕事でした。

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仕事の合間をぬって私たちの世話をする母。地面はまだ砂利敷きでした。

自宅の西の空き地に積まれたヒノキなどの木っ端で遊んでいました。毎日でる木っ端の焼却も母の仕事でした。

姉は気の利く子供だったそうですが、無茶を言う私はたまに姉にひっぱたかれていました(笑)

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西の出来山に花見に。あるあるの写真ですね。

父は車が趣味でした。昔貧しかったので成り上がりですね。

母は趣味もなく倹約家で、昔から父の苦労話を私たちに語りながら仕事面でも父を支え続けました。

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小学生のころ、西の空き地に自宅兼車庫を増築。
母も当然手伝っていました。

そのころ私はスポーツ少年団で野球に一生懸命でしたが、夏休みは釣りでさぼった事も…

母は基本エプロン姿。

父である三代目社長。庭などもだんだん整備していき、アスファルトも張りましたね。

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自宅の写真。4畳半の居間兼寝室?の北にダイニングキッチン兼脱衣室という狭小間取りを実現していました(笑)

坊主頭なので中学生? 姉に泣かされなくなったころですね(笑)

中学でますますブラックバス釣りに夢中。バックは南濃町吉田の三切池。



三代目が作ったカタログです↓

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後藤家三代唯一の集合写真。 「服をちゃんとしろ」父と言われ、シャツとセーターをパンツインしてしまい…

高校では音楽への想いが解放。勉強は二の次に… 受験に惨敗(笑) 失意の中、金沢工業大学に行くことに…。

大学では楽器から離れていましたが、大人になって音楽に助けられました。

大学時代、両親が仕事で忙しい中、一回だけ金沢に来た時に撮った兼六園での写真。
親の心、子知らずでした(反省)

大学では楽しい仲間に恵まれ、今も繋がっています。

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社会人経験を3年した後、後藤工務店に入社。間もなく会社を海津町外浜に移したわけですが、その地鎮祭の写真です。父(社長)はこの時57歳。

私は25歳でまだ結婚前。このころは大工修行をさせてもらいながら、色々学んでいるころでいつも作業服を着て汗をかきながら働いていました。

まずは作業場の北棟を新築。

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間髪入れず、南濃町吉田の西作業場を海津町に移設するために解体。

南側の作業場が南濃町から持ってきたものです。

私が30代? 専務の時代。会社でバーベキューをしている写真が残っていました。妻にも支えられながら社員大工さんと共に汗を流して働いていました。

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30歳の頃。海津市での建方。建方には40歳中盤まで参加していました。

誰も大きな事故無く今日まで来れた事も感謝です。

南濃町吉田の生まれ育った自宅は、他人様に買ってもらい、今は海津町の父の実家に住んでいます。


私と共に会社が海津町外浜に来てからは、今日まで会社社屋はそれほど変わっておりません。
ただ、建てる家の様式や性能は時代に沿わせつつ変化させてきました。

そして2025年の現在、まだ日本のほとんどの人が体験したことのない快適生活ができる高性能住宅を提供する活動をしていきます。